奇跡の一本を作り直す難しさ「死霊のはらわた」


このリメイクを肯定すると、昨今のダメホラー全てを肯定することになってしまう微妙な映画だった。
そもそもオリジナル版「死霊のはらわた」は完璧では無かった。それはそうだ。素人が週末に集まってチビチビ撮影し長期に渡って作られたものだし、細かいところを突っ込めばきりが無い。オリジナル版が偉大なのは、技術的なところではシェイキーカムはもとより、粗っぽさを作家性にまで昇華させてしまっているところだ。これは「悪魔のいけにえ」にも言えるところだが、時代性を伴った奇跡の一本なのだ。それをあえて作り直すってんだから「テキサス・チェーンソー」と同じ問題が発生するのは避けられない。
時代性を伴った映画を30年を経て作り直すということは、無難に現代の流行を取り入れ、最新最善のやり方で挑むしか無い。コケる訳にはいかないからだ。オリジナル版が冒険のために作られてモノに対して、リメイクは商業的なものにならざるを得ないということだ。これは仕方の無いことなのだが、リメイク版の「死霊のはらわた」は、そうあってはならなかった。なぜならライミがプロデュースしているからだ。ライミは「死霊のはらわた」を自分で撮りたいに違いなかった。でも今のポジションではそれが出来ない。だから「スペル」を撮ったのだ。その鬱憤を晴らすためライミは、新人発掘用のレーベル「Ghost House」を作り若手に、自分がやりたかったことを若手に任せるようにしたのだが、これがまったく冒険していない。
まだ数本しか作品は無いのだが、ゼメキスブランドのDark Castleがやっているようなものばかり。「ポゼッション」なんて中途半端なJホラーのパクりで観てられない内容だった。パイオニアがそんなスタンスでどうすんだよ?って話です。
で、リメイク版「死霊のはらわた」。
監督のフェデ・アルバレスは、「完璧で無かったオリジナルを完璧なものにしたかった」という。ただ山小屋にパーティに行くだけの設定に必然性を与え、死霊の存在を具現化させ、「死の書」の内容もハッキリ明示し、殆どお笑いの域まで達していた不用意なスプラッター描写やクドい反復描写を抑え、昨今はやりの拷問描写やJホラーに観られるドッキリ表現を取り入れた。結果、どうか?

なんだ・・・超普通じゃねぇか。

もちろん良いところはある。憑依された瞬間やメガネの青年が襲われるくだりや、クライマックスのまさに「血の雨」が降って以降は、なかなか面白い描写が続く(それでも既視感ありありなのだが)
だが、完璧にしようとして間延びしすぎ、野暮ったさが目立つ。90分のランニングタイムが長く感じれるほどだ。

ホラー映画は粗っぽくていい。完璧で無くても良い。そんなことよりもっと冒険すべきジャンルのハズだ。それを無難に撮って何になる?僕たちは観たことも無い映画を観たかったんじゃ無いのか?リメイクにそんなモノを求めるのは酷だが、それが出来ないのならその名を背負う資格は無い。登場人物の名前の頭文字を並べ替えるとDEMONになるが、そんな感覚不要なんだ。