「ヘルプ 心がつなぐストーリー」/ 「ごめんなさい」するのも、いい加減疲れませんか?

米南部の差別的風土に衝撃を受けたジャーナリスト志望のスキーターは、ヘルプと呼ばれる黒人メイドのインタビュー集の出版を思い立つ。スキーターは友人ヒリーの家で働くアイビリーンに取材を申し入れるが、彼女は頑なに取材を拒否する。白人と個人的に会話をもつのは命の危険を伴うからだ。しかし、アイビリーンがヒリーに黒人専用のトイレを作られたことキッカケに取材に協力するようになるのだが・・。

予告編から受けるような、ポップな映画では無い。
今更南部の黒人差別をポップに描いたって誰も怒りゃしないと思うのだが、笑かしたいのか、シリアスに時代を描きたいのかハッキリしないボヤけた感じを受けた。

まず真ん中に据えたいのが、「ヘルプ」著者のスキーターなのか、取材対象の黒人メイドなのかはっきりしない。それに中心にいる人物が揃いも揃ってステロタイプな連中で、面白みがないのだ。語り部もスキーターから突然アイビリーンに変わってしまうし。イベント箇条書きが過ぎる映画という印象だった。

ミシシッピ州つったら、ガッツガツのバイブルベルトど真ん中の黒人どころか白人以外への差別が強烈な場所である。そんななかスキーターが殆ど苦労することなく、黒人メイドの協力を得られるってのは、どうも安直な感じ。
ついでに言うと、スキーターの婚約者も余りに空っぽで、突然現れて付き合い始め、突然キレて退場していく。野郎は世間体で生きているのでその辺のしがらみがあるっぽい印象を残すのが、"スキーターが本の出版で失ったモノ'を描くには効果的なのだが、アレではただの馬鹿である。

アイビリーンやミニーを初めとする黒人メイドたちは、差別過激派白人の暴力に怯えているが、追い詰められている感が希薄で、精々、夜道を慌てて帰る途中にすっころんで泥まみれになる程度だ。

ヒリーにしても、最後の最後まで悪役に徹しているのだが、押し寄せる公民権運動の波と土着の人種差別の狭間にあって、あからさまな恐怖感を抱いているという部分をちゃんと描いた方がよかったんじゃないのか?
彼女の劇中の言動を見ていると、とにかく怖くて怖くて仕方がないという部分が見え隠れしていたのに、勿体ない。しかし、最後、アイビリーンに「そんな生き方、疲れませんか?いい加減に・・疲れませんか!?」言われた時のあの表情は素晴らしかった。

一方で、面白みのない中心人物が箇条書きエピソードを重ねる中、街外れに住む貧民出身のシーリアとその旦那、スキーターの母親、ヒリーのカーチャン(あぁ、愛しのシシー・スペイセク)がエモーショナルな人格をひけらかしていて、とても気持ちが良かった。

なんかね、人種差別テーマの映画って貶せないイメージないですか?僕、いつも思うんですけど、人種差別とか反戦って、なんかもうそれぞれのお国の「ごめんなさい」っていう後ろめたさが後押しして、変に評価されているような気がしてならんのですよ。

ストーリーは面白いんですけど、なんかペラペラでボヤボヤな印象の一品でした。